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『ガンダム ジークアクス』はどの宇宙世紀?時系列・パラレル設定・アムロとシャアのifを徹底考察!

はじめに

『ガンダム ジークアクス(GQuuuuuuX)』。この最新作を観て、思わず「えっ、宇宙世紀なの?」「これっていつの話?」と戸惑ったガンダムファンも多いだろう。赤いガンダムに乗るのはまさかのシャア!? アムロはどうした? ジオンが勝ってる!?

今回はそんな混乱と興奮の渦中にある本作を、「時系列」「if設定」「アムロとシャアの役割」という切り口で徹底的に解き明かしていく。

宇宙世紀0085年、だが世界は“if”

『ジークアクス』の物語は、宇宙世紀0085年。場所は中立コロニー・サイド6にあるイズマ・コロニーだ。

一見するとこれは、かつての『機動戦士ガンダム0080』などと同じ時代の延長線に見えるかもしれない。しかし、ここで注意すべきはこの作品が「パラレルワールド=if世界線」であるという点だ。

本作の最大の特徴は、「一年戦争でジオンが勝利していたら?」という仮定に基づいて構築されていること。シャアがガンダムを奪取したことにより、戦局は大きく変化し、地球連邦は敗北。宇宙世紀の覇権はジオン公国に移っている。つまり、これまでの宇宙世紀シリーズとはまったく異なる歴史を歩んだもう一つの世界なのだ。

このジオン勝利後の世界は、政治体制や人々の価値観にも大きな変化をもたらしている。連邦はその統治力を失い、多くのコロニーは自治やジオンの影響下で再構築されている。一方で、戦勝国であるジオン内部にも矛盾や軋轢が生まれ、新たな社会問題が浮上している。

特にサイド6という舞台設定は象徴的だ。かつては中立を保っていたこのコロニーが、戦後の混乱によって“無秩序の温床”になっているというのは、ジオンによる支配が決して万能ではなかったことを暗示している。秩序と自由、勝者と敗者――その境界線が揺らぐ世界が、この『ジークアクス』の舞台だ。

つまり本作は、ただの「ifガンダム」ではなく、宇宙世紀そのものの在り方を問い直す挑戦的な作品でもあるのだ。

シャアがガンダムに乗るif設定

『ジークアクス』でもっとも衝撃的な要素のひとつが、シャア・アズナブルがガンダムに乗っているというif設定だ。

従来の宇宙世紀では、シャアはジオンのエースパイロットとしてザクやゲルググ、サザビーなどに搭乗し、常に「連邦=ガンダム」と敵対する立場にいた。しかし『ジークアクス』では、その構図が真逆に転じている。赤く塗装されたガンダムを操るシャアは、もはやジオンの象徴であり、“連邦に奪われた技術の最高傑作を取り戻した英雄”として崇められているのだ。

この設定は、もしシャアが初期のRX-78-2を奪取し、その性能を完全に自分のものとして使いこなしていたら…という大胆な仮定に基づいている。作中の描写では、シャアが一年戦争中にア・バオア・クーでガンダムを強奪し、それを自軍に持ち帰ったことで、ジオンは逆転勝利を収めたとされる。つまり、「機体性能の差」ではなく「象徴の逆転」が戦局を変えたのである。

また、“赤いガンダム”という存在そのものがメタ的にも重要だ。これまで「赤=ジオン、白=連邦」というビジュアル言語が暗黙の了解だったが、それを真っ向からひっくり返すことで、観る者に強烈な違和感と新鮮さを与えている。特に、かつての敵機だったガンダムが、自分たちの味方になっているという現実は、ジオン国民にとっても複雑な感情を生んでいるようだ。

さらに、シャアがこの“赤いガンダム”に乗ることで、自身の理想をよりダイレクトに体現している点も注目すべきだ。彼が求めたのは「人類の革新」であり、それを象徴するモビルスーツに乗ることは、ジオン内部でもカリスマ性を強め、政治的な影響力をも拡大させていると推察できる。

つまりこの世界では、「シャアがガンダムに乗る」という行為そのものが、ジオン勝利の要因であり、同時に彼の“精神的勝利”でもあるのだ。

アムロ・レイはどこに?

『ガンダム ジークアクス』の視聴者がまず戸惑うのは、「アムロ・レイがいない」という点だろう。

言わずと知れた初代ガンダムの主人公であり、ニュータイプという概念の象徴的存在であるアムロ。彼がいなければ、連邦の勝利も、地球圏の均衡もなかった──そう信じていたファンにとって、アムロ不在の宇宙世紀0085年は強烈な違和感をもたらす。

『ジークアクス』において、アムロの名前が明言される場面はごくわずかであり、しかも彼がガンダムに乗った記録は一切存在していない。つまり、この世界では「アムロがガンダムに乗らなかった」あるいは「そもそも登場しなかった」というifが成立しているのだ。

この設定が示すのは、ニュータイプという概念そのものの否定、または未発見という世界観である。従来の宇宙世紀では、アムロを中心にニュータイプの存在が連邦・ジオンの双方の技術開発や政治判断に深く影響を与えていた。だが『ジークアクス』では、戦いの焦点は“革新”ではなく“支配と混沌”に移っている。

さらに、アムロという“個”の英雄性が排除されることで、この物語はより群像劇的・市民視点的に構成されている。アムロがいなかったことで、誰かひとりの力ではなく、戦争の帰結が構造的・集団的なものとして描かれているのだ。

「ガンダム=アムロ」という等式を捨て去った世界。それは同時に、「誰がガンダムに乗るのか?」「その機体は何を象徴するのか?」というテーマを、まったく別の角度から問い直す作品でもある。

つまりアムロ不在は“欠落”ではなく、“視点の再構築”。ガンダムというフレームの中で、新しい主人公像と物語構造を生み出すための、大胆なリセットなのだ。

戦後社会とクランバトル

ジオン公国が勝利した宇宙世紀0080年代。だがその“勝利”は、決して人々に安寧をもたらしたわけではなかった。

『ガンダム ジークアクス』が描くのは、戦後5年を経た社会──一見すると戦火は収まっているが、実際には傷跡と格差が広がり、人々の心は荒廃している。地球連邦の敗北後、多くのコロニーではジオンの支配下に置かれたものの、地方政府の腐敗・難民の流入・治安の崩壊といった問題が噴出。サイド6・イズマコロニーもその例外ではない。

この混乱の中で生まれたのが、非合法モビルスーツ競技「クランバトル」だ。表向きはエンタメ、実態は賭博・私闘・代理戦争。モビルスーツを操るパイロットたちは、金のため、名声のため、あるいは生き延びるために戦う。

本来は戦争の象徴であるMS(モビルスーツ)が、戦後もなお“格闘競技”として生き延びているという皮肉──これはまさに戦争が終わっても、争いは終わらないというガンダムシリーズの永遠のテーマのひとつだ。

主人公マチュがこのクランバトルに巻き込まれていくことは、単なる戦いではない。彼女は、貧困の中で生きる難民少女ニャアンと出会い、人間の尊厳や社会の矛盾に直面していくことになる。ここには『鉄血のオルフェンズ』的な社会階層のリアリズムと、庵野監督らしい“過酷な状況で自己を問う”テーマ性が重なっている。

戦いが日常となった世界、そして希望と絶望が混在する社会の中で、「戦う理由」が問われるのが『ジークアクス』の本質だ。クランバトルとは、ただのアクション演出ではなく、この世界が抱える痛みと矛盾の象徴なのである。

まとめ:ジークアクスが突きつける“ifの重さ”

『ガンダム ジークアクス』は、これまで築かれてきた宇宙世紀の常識を、根本から問い直す作品だ。

一年戦争でジオンが勝った世界──シャアがガンダムに乗り、アムロは歴史から姿を消し、戦後社会には平和ではなく“闘争の残響”が残る。これは単なるパラレル設定にとどまらず、「勝者とは誰か?」「正義はどこにあるのか?」といった普遍的な問いを、視聴者に突きつけてくる。

ガンダムという存在は、これまで常に“力と理想の象徴”として描かれてきた。だが本作では、その象徴すら曖昧になり、赤く染められたガンダムは果たして誰のものなのか、何を守っているのか、見る者に問いかけてくる。

そしてアムロという“答え”が存在しないからこそ、私たちは改めて考えることになる。「英雄とはなにか?」「戦う意味とはなにか?」を。

『ジークアクス』は過去の否定ではなく、未来への実験だ。もし違う選択をしていたら、もし歴史が少しズレていたら、その先にどんな世界が待っていたのか──

ガンダムというフレームの中で、こんなにも異質で、だからこそ挑戦的な作品が生まれたこと。それこそが、シリーズの懐の深さを物語っている。

赤いガンダムが問いかけるのは、「お前は、どちらの未来を望むのか?」ということなのかもしれない。

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